結婚するって本当ですか


左いづ  ベッド下に乱暴に脱ぎ捨てられた服の中から、ブラを拾う。胸にあて、後ろ手でホックをつけようとするも、左京に背中をなぞられ、その手はとまった。
「……なんですか」
「花嫁さんが、前日にこんなことしていいのか」
「……そんなの、いいわけないです」
 大きな手のひらがいづみの背中を上下する。あたたかくて、気持ちいい。セックスなんかよりもよっぽど気持ちいいんじゃないかとすら思った。
 明日、いづみは結婚する。左京ではない別の人と。夫になる人には、独身最後の女子会してくる、と素知らぬ顔で告げてきた。その声色に後ろめたいことはなにもなく、こんなに自然な演技ができるのかと驚いた。びっくりして、そのあと少しだけ悲しい。彼は、微塵も疑ってない様子で、いってらっしゃいと笑って見送ってくれた。いってきます、夜には帰るから。カレー作って待ってるよ。本当? うれしい、早く帰ろっと。楽しんできて。──彼は優しい人で、そういうところに惹かれて結婚を決めたのだった。
 そんな彼を裏切り、嘘をつき、そしてそれをおくびにも出さずに昼間から左京とのセックスを楽しんだ。乱れたシーツは先程までの情事を想起させる。安くも高くもないラブホテルの一室で、扉が閉まるやいなや貪るようにキスをして、お互いを求め合った。婚約者のことはかけらも思い出さずに、ただただ左京と快楽に耽った。いづみの上に乗り、腰を振る左京はこんなときでも大人びて見えて、汗で濡れた髪がとってもセクシーだった。
「……どんな人なんだ。その、相手は」
 左京の手のひらは変わらず背中に置かれたままだ。今更、と思わず鼻で笑う。結婚する、と最初に告げたとき、左京は「そうか」と一言頷いただけだった。左京をすごく遠くに感じてしまって、寂しくてたまらない。
「女の人は二番目に好きな男と結婚すると、幸せになれるそうですよ」
 左京はそれになにも返事をしなかった。いづみはそれを気にもせず言葉を続ける。
「私は好きでしたよ、左京さんのこと。とっても」
 だからきっと私は幸せになれますね。
 そこまで言いきってしまうといづみは口を閉じ、そして長い沈黙が続いた。私はきっと幸せに。なれますね。頭の中で、自分の発した言葉が渦になる。まるで呪いだ。自分で自分を縛るなんて、滑稽にもほどがある。
「……そうか」
 沈黙の末、口火を切ったのは左京だった。そのそうか、の言い方は随分と優しくて、いづみは返す言葉を失う。
 ずるい、と思った。私は。きっと幸せに。胸の内で繰り返す。きっと幸せに。なれます。きっと幸せに。気づけば、きゅっと下唇を噛み締めていた。
「私が作ったカレーを、いつもおいしいって言って食べてくれるし」
 前歯が唇を傷つける前に、無理に口を開く。左京は小さく笑った。
「いい人なんだな」
「ええ、本当に。私にはもったいないくらい──」
「……結婚、おめでとう」
 そう言って、いづみの背中を撫でていた手が離れていく。きもちよかったのに。ラブホテルの辛気臭い壁をぐるりと見渡し、きっと明日はたくさんのおめでとうが待っている。早く下着をつけて、服を着て──それもちゃんと皺ができていないか確認しないといけない。女子会では服を脱がないはずだから──、軽く化粧を直したら家に帰ろう。家では、いづみをこれぽっちも疑わずにカレーを作っている男がいて、明日、その男の妻になる。
「──左京さん」
 声が震えた。
「さようなら」
 それを言葉にしたとき、視界があわあわと滲みだし、瞬きのたびに大粒の涙が頬を伝った。あれあれ、困ったな。違うのに。止める術がわからなくて、せめて目をこすらないようにするのが精一杯だった。左京の手は、慰めるためでももういづみに触れてはくれない。それはいづみが望んだことなのに。だけどやっぱり悲しかった。
 ──私は本当に左京さんのこと、好きでした。
 もう二度と口にはできない思いをゆっくりと唱える。明日の今頃、世界で一番幸せな花嫁になる。「だからもう一度、おめでとうって言ってください」
「何度だって言ってやるよ。結婚おめでとう」
「うん」
「おめでとう。幸せにな」
「そんなの、言われなくても」
 涙を流しながら、きっと左京はこれから先結婚せず、ひとりで生きていくんだろうなと思った。いづみのかけたまじないのせいだ。
「さようなら、左京さん」
 一番に愛した人。


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