入水願い


至幸 「学校をサボるのは屋上。仕事をサボるなら──」
 海でしょ。至がそう言って半ば強引に車に押し込んできたので、幸はなぜか今海に来ている。
「オレは学生なんだから、屋上なんじゃないの」
「そこはホラ、年上を立ててさ」
「……バカみたい」
 スマホの画面をみると、椋から心配の連絡がきていた。当たり前だ。一緒に登校しようとしていた最中、目の前で理由もわからず連れ去られたのだから。なんていえばいいんだろうか。ひとまずは無事であることを伝えればいいのかと一度は返事を打とうとしたものの、自分でも状況が理解できておらず言葉が出ない。面倒になって、電源から落としてしまった。
 元凶である当の本人は、幸の憂鬱をこれぽっちも気にも留めないような素振りで、履き物も脱がずに、砂浜を歩いてく。季節外れの海に、他に人はいない。
 上等な革靴が海水に浸り、じわりじわりと侵食が進む。控えめにたくし上げられたスラックスも濡れていき、それを少し残念な気持ちで見ていた。
「幸もおいでよ」
 せっかくなんだし。と言う至の手には、依存しているスマホがない。彼も同じように電源を落としたんだろうか。今は、いつも執心しているゲームの、イベント開催期間ではないのだろうか。途切れ途切れの思想。
「おいで」
 身体は幸を向いているのに、至はゆっくりと後退していく。もう膝から下が見えない。
 ここまで来てしまったんだ。もう抗ったって仕方がない。
 靴とソックスを脱ぎ、無防備になった素足で至のあとに続いた。幸が動いたのを見て満足したのか、それとも待っていてくれるというのかわからないけれど、至は海に沈むのをやめた。
 足の裏に細かな砂がまとわりつく。爪の間に入りこんで、潮風が髪を撫でていった。目をつむれば広がるのは暗闇だけ。海まで、案外距離があって、至が遠くて、悟られないように小さくため息をついた。
「こわくないよ」
「……うるさい、インチキエリートのくせに」
 意地もあった。そのまま一気に至のもとまで行き、「ほら」と胸を張る。制服は、とうに濡れていた。
「ん。いい子」
 視線を、下に向ける。ただただ海水がたゆたうだけの、不安定な足場だった。冬の海は暗くて、底がわからない。頭上から至のささやかな笑い声が聞こえる。こわくないよ。いい子。
 戻ろうか。
 そう言って、至は浜に帰っていく。帰れない。口の中でもごもごと呟く。きっと聞こえてはいない。でも、たぶん知っている。それでも至は振り向きもせず、自分勝手に歩みを進めて、寄る辺ない幸だけがそこに取り残される。
 それから。至は波打ち際に腰を下ろし、しばらくの間佇む幸を眺めていた。見られていることを意識しながらも、幸は立ち尽くす他なにもできないでいた。
 さて。と。
 至が立ち上がり、服についた砂を適当に払う。追いすがる言葉が口を突いて出そうになるのを、下唇を噛んで堪える。ぜったい。言ってなんかやらない。
「帰ろう」
 予想に反し、至は再びじゃぶじゃぶと海の中を歩いて、幸に手を差し伸べた。帰ろう。
「……、」
「いい子じゃなくて、いいから」
 そんなの、わかるでしょ。
 風がしょっぱい。至の手はあたたかく、海で体温が奪われた身体には、少し優しすぎた。


戻る
Page Top