深夜高速


幸太幸  線路を挟んだ向こう側では、人が所狭しとひしめき合っている。予定より遅れて到着した鉄の箱に、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、群衆は家へと帰るようだ。太一が電車を待つホームには、同様に終電を待つ人はぽつぽつといるものの、反対側とはまるで世界が違う。電光掲示板を見ると、まもなく最後の電車が来る時刻になる。
「二番線に──行きの最終電車が到着いたします。お乗り遅れのないようご注意ください──……」
 アナウンスが流れ、その後、生ぬるい風を引き連れて電車がホームに到着した。扉が開く。車内は煌々と眩しくて、目がくらむ。外の暗さがひときわ際立つような心地がして、なんだかいやだなと思った。いやだと思いながらも、明るさに引き寄せられるように、太一は電車内に足を踏み入れる。
 中では数人がまばらに座っていて、どこに自分の場所を作ればいいのか躊躇した。空いてる座席はたくさんあるのに、立ったままだとしても誰かに迷惑をかける可能性は低いのに。身の置き場がない妙な気持ちだった。少しの間、どうしようもなく立ちすくんでしまっていると、発車ベルが鳴った。あ、出てしまう。どこへ行くのか、あてもないのにどうする気なんだろう──と、他人事のように思って、まだ引き返せると逡巡する。ドアを睨んで、だけど結局足は動かなかった。ただ閉まっていく扉をじっと見ていると、外の世界が遮断される直前、騒がしい音を立て駆け込んでくる人がいた──幸だ。あまりのけたたましさに、座って各々の世界に没入していた人々も幸の方を見やり、だがそれは一瞬で、すぐにまた興味を失ったようだ。ひらりとスカートが翻り、ドアに挟まれるギリギリのところで電車に滑りこんだ幸は、じっとりと汗をかき、肩で大きく息をしている。
「──馬鹿犬、どこいくつもり?」
 これ、終電でしょ。荒い呼吸を落ち着かせながら、幸が尋ねる。どこ。どこへ? 答えようと薄く口を開いたものの、あいにく太一は答えを持ち合わせていなかった。どこへでも、行ける気はしたし、どこにも行けない、行きたくないというのも間違いじゃない。幸の額から頬へ、汗が流れて、きれいだと思った。
「……幸チャン、駆け込み乗車はダメッスよお」
 きっとだいぶ情けない笑顔になってしまったことだろう。幸は舌打ちをして、そして太一の腕を掴んだ。ドア近くの空いている席に、どっかりと腰を下ろす。掴んだ太一の腕を乱暴に揺すった。「座れば」どうせまだ降りる気、ないんでしょ。その言葉に頷くかわりに、太一は幸の隣におずおずと座った。
「終電に乗って、どうやって帰るわけ?」
「あー……考えてなかったや。ごめんッス……」
「別にオレに謝んなくてもいいんだけど」
 横目でちらりと幸を見るが、彼は電車内を物珍しそうに眺めている。でも、だって幸チャンだって帰れなくなっちゃったッス。幸はそれには応答せず、「終電って初めて乗った」と言った。閑散とした車内で、二人の会話だけが響く。
 ぐるりとひとしきり眺め終えたのか、幸は急に太一の方を向き、「連絡、しとくから」とポシェットからスマホを取り出す。
「あ、連絡は……」
「……あっそ」
 素っ気なく返事をした後、幸は手に持ったスマホを電源から落とした。太一のスマホもすでに電源が入っていない。こうして二人は、誰からも干渉ができない存在となった。今、この瞬間は。

 がたんごとんと電車が揺れる。その揺れに合わせて、時折幸と肩がぶつかった。幸はなにも聞かない。光が反射して、外の景色がうつらない窓に視線を注いでいるようだった。スマホを操作する人、目をつむり電車の動きに合わせ左右にゆらゆらとする人、多種多様に過ごす人がいる。その他大勢に紛れ、行くあてもないのに太一と幸はどこかへ運ばれていく。俯くと、少し汚れたスニーカーが目に入った。横の幸の靴は、きれいに手入れされている。
 幸を巻き込んでしまった以上、連絡をするのが正解なのはわかっていた。それに恐らく心配してくれている。それは太一だって不本意なことで、心苦しい。しかし誰にもなにも知られたくない気分だった。それに心配する声を聞いてしまったら、すぐにでも電車を降りて寮に帰るだろう。まだ、電車に揺られていたかった。
 電車が知らない町にとまる度、車内からは人が少なくなっていく。居眠りをし、ガクンと大きく揺れていたサラリーマンも、自分の駅についたのかいそいそと降りて、太一の乗っている車両からは二人以外がいなくなった。終点が近づいている。
「貸切になったッスね!」
「なんか、変なかんじ」
 住み慣れた町から離れ、確かにどこかへ向かっているのに、どこにも行けないような心持ちになって仕方ない。狭い箱の中に閉じ込められたような気になる。蛍光灯がやっぱり眩しくて、急激に心細くなった。幸チャン、と話したいこともないのに呼びかけようとしたが、彼はおもむろに立ち上がり、車内に掲げられた路線図を眺めた。
「こんなところまで来たことない」
 そう言って、天鵞絨駅からいくつの駅を通りすぎたのかを数えるように指をさし、「変なかんじ」と再び呟いた。こんなところまで来たのか。と、息苦しさから解放された太一も、心の中でそれに同意する。
 小学生の頃、初恋の子に会うため、ひとりで電車を乗ったときのことを思い出す。移動の時間は今よりももっと短かったと思うけれど、電車を乗り継いで単身知らない場所へ行くのは当時の太一にとって冒険だったし、寄る辺なさがひどかった。駅についた瞬間大泣きをして、結局あのとき初恋の子には会いにいけなかった。それが今夜、ひとつの同じ駅から幸と電車に乗って、ここではないどこかを目指している。本当に、変なかんじだ。息を切らせて乗車した幸の姿をまだ覚えてる。
「次は終点──終点──です」
 終着がまもないことを告げるアナウンスが流れた。それを合図に、幸は今度は通路を挟んだ太一の正面に座り、「まあ、どうせすぐ立つんだけど」と小さく付け足した。
 随分長いこと電車に乗っていた気もするし、想像していたよりずっと近かったようにも思う。ただなんとなく、遠くへ来たんだなという実感があった。向かいにいる幸と目が合う。お互いに言葉を発することはなく、視線だけ交差して、寂しさと懐かしさとが入り交じった妙な心緒だった。

 ──ついに最後の駅に到着したようで、電車はゆっくりと動きが止まり、扉が開いた。途端に外気が中に流れこむ。降りるようアナウンスが繰り返されるが、幸が「……降りるよ、馬鹿犬」と言うまで、太一は幸を見つめて動かずにいた。
「ほら」
 幸が手を差し伸べる。
「……はいッス!」
 その手を取り、ようやく太一は立ち上がって電車を降りた。外の世界は暗くて、明るい車内との差にくらくらとする。繋いだ幸の手をぎゅっと強く握る。空気が天鵞絨町よりもひんやりしているようにも感じられ、鼻から大きく息を吸うと知らない匂いがした。どうしてここに来たのか、来たくてここにいるのかと問われると、それはよくわからない。周囲を見渡す。
「なんもないッスね」
「うん。でも、星がきれい」
 幸に促され、太一は空を見上げて息を呑んだ。確かにそこには天鵞絨町で見るよりもはるかに多い星が煌々と光っている。広い空の下で、どうしよくもなくふたりぽっちで、でも不思議と寂しくはなくて、なにも思い出しはしないのに胸の奥がぽかぽかと暖かい。幸の体温が、触れた手から太一にも移ってくるようだった。
「悪くないね。こういうのも」
 太一も、「うん。悪くないッス、」と幸を真似て、頷いた。
 ずっとそうしていたいくらいだったが、そうもいかず、駅員に追い出されるように改札を抜ける。手は、離さない。これからどうしたもんかと思考を巡らせていると、「さ、帰るよ」と幸は平然と言ってのけた。
「え? でもどうやって──」
「タクるに決まってんじゃん」
「ええ?! そっそんなお金ないッス!」
 頻繁にタクシーに乗るわけではないが、ここから寮までの道のりは、到底太一に払える額ではないだろうとは容易に予想できた。さらには深夜料金だってかかるだろう。慌てて首を横に振る。しかし幸の顔色は変わらない。スマホの電源を入れ、手早く誰かにメッセージを送ると、少し考えたあとまた電源を切っていた。
「大丈夫、経費で落とすから」
「それはさすがに無理な気が……」
「いいから。誰かしら出すでしょ」
 目の前のタクシー乗り場に向かう幸に引っ張られるように歩き出す。幸チャン頼もしいッス。声には出さずに口の中で呟く。来てくれて、よかったなと思った。汗をかいて、駆けてくれて。おかげで、帰り道だってわかる。
 乗り込んだタクシーの運転手は無口な男で、幸が行き先を告げ、それに軽く相槌を打った後、世間話はもちろんのことなにも発しなかった。やや乱暴にハンドルを切って、帰路につく。電車とは違い、薄暗いままの車内が居心地がよく、エンジン音だけが低く響いていた。見れば幸は目をつむり、浅い眠りについているようだ。耳をすますとすうすうと静かな寝息が聞こえる。表情はよく見えないものの、太一はその様子を横目で盗み見て、どこか安心した。繋いだ手から伝わるぬくもりが、それをさらに増幅させる。リアウィンドウから見えるのは真っ暗な景色で、知らない駅がどんどんと遠ざかっていく。眠気はなかったが、太一も目を閉じて、瞼の裏に先程の星空を描いた。タクシーが前方に進めば進むほど、きらきらとその光が強くなる気がした。



「次の角を右に──」
 いつのまにか太一もうとうととしてしまっていたようで、目覚めると幸が運転手に道の指示を出す声がした。重い瞼をこする。幸がそれに気づいたようで、「もうすぐ着くから」と言った。外を見れば確かに見覚えのある道で、帰ってきたことを知る。
「……幸チャン」
「なに」
「その……なんていうか」
 ありがとう。ごめん。どちらも適切に思えなくて、言葉に詰まる。
「ついたら、財布待つから馬鹿犬は先行ってて」
「あ──うん、わかったッス」
 幸の方から、手を強く握られ、それで充分だった。余計なことを話すのはやめて、窓の外に広がる見知った道を眺める。きっと夜空に、あの場所ほどの星は輝いていなくて、終電に乗る前となんら変化がないはずなのに、どうしてこんな風に穏やかなんだろうと不思議だ。特別なことなんてなにもなかった。それでも、漠然と抱えていた寂しさのようなものが、確かに軽くなっている。
 車が揺れても、今度は二人の肩がぶつかることはない。座席の真ん中に重ねた手を置いて、親指や人差し指の腹で幸の手の甲を撫でた。それに呼応するように幸が手を握る力を強める。幸の指は骨ばっていて細長く、その指が衣装を紡ぐのを長いこと近くで見ていた。そんなことを思い出して少しくすぐったい。
 幸は窓から外を見ていて、凛々しいその横顔がすごくかっこよかった。つい頬がほころび、目尻が下がる。太一の視線に気づいたらしい幸と目が合って、「なに。その顔」と呆れられた。
 そのうちに二人の帰るべき場所に到着して、タクシーが停まる。運転手の男は相変わらずぶっきらぼうで、そこにいたるまでにかかった料金だけを無愛想に告げた。その言葉を合図にするように、固く繋いでいた手を解く。名残惜しくはあったけれど、幸の体温はまだ太一の手のひらにとどまっていたので、寂しくはならなかった。
「じゃあ、誰か呼んでくるッスね」
 先刻言われた通りに、幸を待たずに降りる。そのときふと足元に目がいって、くたくたになったスニーカーを見た。これからもまだ履き続けるつもりのそのスニーカーを、少しは労ってやろうという気持ちになる。
 ほんの数時間ぶりの寮は、夜中にも関わらず明かりが点いていて、その光がなんだか今の太一には柔らかく感じられた。眩しくはあるものの、ろうそくに灯った火のようにじんわりとあたたかく、胸の奥にとどまり続ける。たくさんの星を見上げるのも悪くなかったけれど、眼前に広がるこの明るさも、確かに太一の心に残った。今は暗闇も怖くない。鼻からゆっくり息を吸い込んだ。
「……ただいま」
 そう呟いて一歩前に進む。背後からもおかえり、と声が聞こえた気がした。


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