罪と罰


至太  あの日のうそがまだ忘れられない。

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 その日は心底疲れ果てていた。納期に立て続けに追われ、やっと仕事がひと段落したかと思えばお偉方の接待に駆り出され、好きでもない酒を煽り愛想笑いをし、金曜日特有の混沌とした終電に揺られ。せめて、ログインだけでもしないと。趣味のはずが半ば強迫観念のように思えて、いつもは息抜きになるゲームすら苦痛に思えた。それが余計に気分の落ち込みに拍車をかけ、大きなため息をつく。
 寮につくとすでに建物全体が静まり返っていた。あの騒がしい出迎えがないのは救いであり、だが一方でどこか寂しい。無意識にただいま、と言いそうになる自分に気がついて、茅ヶ崎は自嘲気味に笑った。それから、寝る子を起こさないよう小さな声で、すっかり習慣となっていた「ただいま」を呟く。
「おかえりなさいッス、」
 予期せぬ返事にぎょっとして声のする方を見ると、談話室から七尾がひょっこりと顔を出していた。「え……太一、待ってたの?」
「ううん、眠れなくて水飲みにきたッス!」
 そしたら至サン帰ってくる音したから。いつものように笑い、茅ヶ崎の手から鞄をひったくったかと思えばそのまま茅ヶ崎の胸へと飛び込んできた。思わずバランスを崩す。すうっと鼻から大きく息を吸って、「至サン!」と茅ヶ崎を見上げて笑った。つられて頬がほころぶ。髪を撫でようと手を伸ばした、瞬間のこと。
「タバコとお酒と──女の匂いがするね!」
 はっと息をのむ。七尾の表情を変わらず笑顔だ。ずんと腹に抱えたものが重くなる。行き場のなくなった腕は、少し空を彷徨った挙句、みっともなく下ろされた。
 思い当たる節はあった。接待の一環として風俗店を利用したので、そのときのものだろう。にしたって。あからさまなものでもないだろうに、嗅覚まで犬並みで、本当にいやになる。取り繕う余裕もなくため息をついた。
「……至サン?」
 不思議そうな顔をする七尾の鼻をつまむ。なにするッスと喚く七尾から視線を外し、今度は気づかれないように、深く息を吐いた。今日は、すごく、疲れた。まだ靴すら脱いでいない。玄関に立ちっぱなしで、何をしているんだろうと立ち尽くす。

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 あくる日。七尾は償いに、とは言わなかった。けれどそういう意図があったのだろう。デートしよ! と言ったその口で、スマホなどゲーム機器はぜんぶ部屋に置いていくよう告げた。
「ええ、さすがにスマホは……ホラ、はぐれたときとか困るし」
「はぐれても見つけてみせるッスよ〜!」
 俺っち鼻きくし! ね? 知ってるでしょとそのまま昨晩のことを蒸し返されても困るので、仕方なく折れることにした。持っていったところで、七尾の目の前で触ろうものなら余計に面倒なことになりそうだったというのもある。
 前日の疲労がまだ残る中、午前中から活動するのは大儀だ。あくびを奥歯でかみ殺す。七尾だって眠ったのはだいぶ遅かったろうに、元気にはしゃいでいた。
「行きたいとこ、ぜんぶ付き合ってもらうッス!」
 ふと気を抜けば姿が見えなくなるほどの雑踏に眩暈がする。少し前を歩く七尾についていくのがやっとだ。「至サン、こっちこっち!」
 ちらりと背後の茅ヶ崎に目をやり、手招きしたかと思うと七尾はその歩みを早めた。追いかけようとするも人混みに呑まれて距離が離れていく。
「ちょっと太一、」
「あのね、至サン、──※※※※」
 七尾の発した言葉は、周囲の雑音によってかき消された。なに? 聞こえなかった、と言う間もなく、まるで行く手を阻む意思でもあるような群衆に七尾が拐われていく。あの目立つ髪色が、どんどん遠くなるのをただ呆然と眺めていた。縋ろうと伸ばした手は、行き場を失う。
 茅ヶ崎には、匂いを頼りについていくことなんかできない。ただ見つけてもらうのを待つだけだ。そして、きっと昨晩、談話室でまんじりともせずに帰りを待っていたであろう七尾のことを思う。同じように寄る辺なく、一人で七尾に見つけてもらうのを待つだけだった。
「──うそつき」
 二人の距離は随分と離れてしまって、もう姿がわからない。ため息は、つかなかった。


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