金魚の箱


万太  万里の目が覚めたのは、まだ外が暗い時分だった。スマホで時間を確認すると眠りに落ちてからまだ二、三時間ほどしか経っておらず、十座は気持ちよさそうに高いびきをかいている。もう一度寝ようと瞼を閉じるが、そのぐうぐうと豪快な音が鼓膜に絡まって、目が冴えてしまった。不規則なのがまた腹立たしい。思わず舌打ちをするも、それさえ同室者のうるさいいびきにかき消された。
 104号室を抜けだし、その足でキッチンへと向かう。静かな空間を求めてもいたし、確かに喉も渇いていた。さすがに全員が寝ているのだろう、寮はうす暗く、万里の足音だけが響く。
 だがその暗闇の中でキッチンは煌々と明かりが漏れていた。誰か先客がいるようだ。
「あ、万チャン」
「おー、太一か」
 そこには水の入ったグラスを持った太一がいた。「喉、渇いちゃって」きっと単純に喉が渇いて起きたのだろう。グラスを口元に持っていくたび、セットされていない髪の毛が揺れる。
 太一の「万チャンも?」という言葉に適当に相槌を打ちながら、グラスに水を注いだ。口腔、そして喉を湿らす。隣で太一がごくり、ごくりと小気味よい音を立てて水を飲み干しては、また新たに水を注いでいた。
「お前……飲みすぎじゃね?」
 万里が一杯飲みおわる頃には、太一はその倍以上もの水を飲んでいた。そんなに飲んだら夜中漏らすんじゃねーの、と軽口を叩けば、「そっ……んなことしないッス!」と抗議。怒ったような拗ねたような目つきで睨まれる。
 思い返してみれば、最近太一が水を飲む姿はかなりの頻度で見かけていた。食事時はそうでもないのだが、かえって食事のとき以外は常に水を所持し、何度も喉の渇きを癒す。
「うう……」
 困ったように呻いて、またコップに口をつけた。視線を落とし、右へ左へと不安定に動く。何かを逡巡しているような動きに、しばらく待ってみたが、その唇が動くことはなく、そのうちに自然とあくびがこみあげた。
 そろそろ部屋戻って寝っかな。いびきも気にせず眠りにつけそうだとあくびをかみ殺す。
「太一も早く寝ろよ」
 くるりと背中を向けると、「ま、待って!」と服の裾を掴まれた。「万チャン……笑わない?」
「はあ? んだよ突然──……」
「みて」
 太一は口を大きく開いた。そしてもう一度、「みへ」という。意味わかんねえ、と思いながらもそれに従い、彼の口の中を覗くと、喉のほうに鮮やかな赤が見えた。目をこらしよく観察すると、それはぴちぴちと跳ねており、生き物のようだ。
「お前、それ、」
「き、金魚」
「は? きんぎょって……あの?」
 頷いて、そして水を飲む。飼ってるの、金魚。だから水が必要で。
 あまりのことに理解が追いつかない。いつから? とか、どうして? だとか疑問が浮かぶものの言葉にできず、万里は口をぱくぱくとさせた。
 あ、でもね、ご飯のときはペットボトルに移動してくれるッス! ずっとペットボトルはいやみたいで、ここが好きみたい。
 万里の戸惑いを無視して太一が続ける。喋る太一の喉には、金魚が住み着いているという。太一の髪によく似た赤い魚。
「たしかに最近頻尿には悩まされてるッス……」
 深刻そうに呟き、グラスに残された水をぐいっと飲み干す。閑静な部屋の中、よく耳をすませば金魚が泳ぎまわる音が聞こえてきそうだ。その幻聴が十座のいびきとはまた違った煩わしさで、いつまでも聞こえ続けるような気がした。
「……もう一回みせて」
「え? うん、いいッスよ──……」
 太一の中を覗くと、やはり先ほどと変わらず金魚が喉でたゆたっていた。ぬらぬらと濡れた口腔が扇情的にも思えて、そこに別の生き物が存在しているのは不思議な感じがする。人差し指と親指と舌を引っ張ってみると太一が辛そうに眉根を寄せた。
 舌をべろりと舐める。太一の、えっという声が聞こえたかもしれない。気にせずに噛みつくような深い口付けをした。
 そうしたら太一の喉に住んでいた金魚が、おもしろいことに万里のほうまで泳いできたのだった。気づけば万里を苦しめた水音がより近くなり、自身の口内で金魚の活きがいい跳ねを直に感じる。これが誰よりも太一のそばにいた、と考えると妙な気分だ。今は、太一と万里互いの唾液にまみれて生きている、この金魚が。
 息をつく暇もなく唇を重ねあい、「待って……ッ万チャン、」という制止すら嬌声に思える。髪を撫で耳に触れるとびくりと身体を震わせた。なにかに似てる、と息を飲んだ。ごくり。
「あ」
「え?」
「あー……悪りい、太一」
 息を飲んだと同時に、太一が大事に飼っていたであろう金魚まで飲みこんでしまったようで、喉を通った金魚が食道を滑り、胃にぽちゃんと落ち着いたのを感じた。
「ひどい! 万チャンのバカ!」
 夜中だというのにそれを構わない大きさで責められ、恨みがましく睨まれる。その瞳には涙がめいっぱいたまっていた。
「今度水槽と一緒に金魚買ってやっから。な?」
「そういう問題じゃないッス!」
 太一の怒声に合わせるかのように、身体の中で金魚が大きく跳ねる。目の前でさめざめと泣く太一がいじらしく、拒絶されない程度に優しく抱きしめ、目尻にたまった涙を舌ですくった。太一はひどい、ひどいと繰り返し、雫はとどまることなく溢れた。その都度余すところなく舐めまわし、髪を撫でる。今まで取りこんだ水分を、すべて涙で発散させてるみたいだ。逃さないように、ぜんぶ飲み干してしまえるようにと懸命に舌で絡めとる。きっと今頃、金魚は胃の中で涙に溺れてる。
 涙が枯れる頃、寮はまた元の静けさを取り戻した。


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